平成27年7月、ユネスコ世界遺産委員会において記載が決定された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」。日本の8県11市に所在する23の資産が、世界文化遺産の構成資産として登録されています。
大牟田市にはその中の3つの資産「宮原坑、三池炭鉱専用鉄道跡、三池港」があり、様々な関連施設とともに一般開放し、見学できるように整備されています。
…なんて、難しい言葉が並んで良く分からない…という方へ。
ちょっとわかりやすく「世界遺産」をご紹介します!
さて、そもそもどういうところが世界遺産級にすごいのか!?
分かりやすく言うと、「日本発展の基礎を作った資産」。
江戸時代、鎖国によって海外からの文明をほぼ持ち込ませなかった日本。鎖国後の幕末から明治時代という短期間で近代工業化を果たし、飛躍的な発展を遂げました。
そんな日本の近代化にエネルギー面で貢献した施設なんです!
大牟田市で登録されている構成資産は、三池炭鉱の「宮原坑」と
掘り出した石炭を港へ運搬するための「専用鉄道敷跡」、
そして国内、海外各所へと運んだ「三池港」。
だから、「世界文化遺産」はちゃんとルートになっているんです。
そう考えるとちょっとルートを辿ってみたくなりませんか?
当時の風景や雰囲気、物語を辿ってみるだけじゃなく、
歴史ある遺産たちはその姿もカッコいいんです!
まるで映画のワンシーンのような、とても素敵な写真も撮影できちゃいますよ。
さぁ、大牟田市の「世界遺産」をぐるっと巡ってみましょう!
勇壮な鋼鉄製櫓に惚れ惚れ!
「宮原坑」
三池炭鉱には、9つの坑口がありました。
「大浦坑」「七浦坑」「宮浦坑」「勝立坑」「三川坑」などなど。
そして、ここ「宮原坑」は、おとなり熊本県荒尾市の「万田坑」と合わせて世界遺産の構成資産の一つに登録されています。
「宮原坑」では、現地ガイドさんによる案内が受けられます。
1名から対応OK!しかも無料なんです!これはお願いしたい!
(現地ガイドさんは当日対応もOKですが、事前予約がおすすめ!)
今回案内いただくのは山田隆二さん。今までいろんな方を案内してきたというベテランガイドのお一人です。
この「宮原坑」、一体どこがスゴイのでしょう?
「炭坑の内部には海水や地下水が入ってくるので、排水しないと採炭はできなかったんですよ。この宮原坑の最大の特徴は、当時世界最大級の馬力を誇ったイギリス製の排水用ポンプ『デビ―ポンプ』を設置していたこと。出力510馬力、1分につき揚水量8.5㎥という能力で、重量は坑内設備を含めて600トンというからスゴイですよね。宮原坑にはこの『デビ―ポンプ』が4台もあったんです」
そのデビ―ポンプが設置されていた建物の壁が残されています。
巨大なデビ―ポンプを設置する建物ゆえに、頑丈に設計。煉瓦を縦と横に交互に積んで行く「イギリス積み」を採用されていて、今なおその積みあがった煉瓦は美しい姿を残しています。
そして、この竪坑櫓!空に伸びる白い櫓は、高さ22メートル。4階建ての高さで東京タワーと同じ工法だそう。
実はこちらは明治34年に完成した第二竪坑、当時最先端であった製鐵技術により建造され、今もこうして当時の姿で残っています。
この第二竪坑は元々排水を目的につくられたそうですが、坑内への人員昇降も目的としていました。
「竪坑櫓の内部に吊るした鉄製ケージがあり、そこに乗った炭鉱マンがウインチで昇降していたんですよ。降りていく人はキレイな様子で、昇ってくる人は煤で顔が真っ黒になってでてくるから、一目瞭然ですよね。」
そう言われてみると、なんだか当時の姿が浮かびます!「疲れた~」とか「一杯飲みたい!」とか、今の様な会話があったのかも?なんとも活気のある場所だったのでしょうね。
ちなみに、三池炭鉱の複数ある坑口の内部は当時つながっており、江戸時代から276年もの間石炭を採掘・出炭していたのです。江戸時代は、三池藩と柳川藩がそれぞれの坑口から掘り進めていたものの、中で繋がったことにより2つの藩の境界争いが勃発。その背景を受けて、明治時代に官営になったと言います。へぇ~!
ガイドの山田さんに案内のお礼を伝えると
「お時間あれば、もう一つお楽しみがありますよ!」との言葉。
なんとガイドの川口さんによる炭坑節の披露がありました!
「月がぁ~、でたでたぁ~」と素敵なお声で炭坑節を聞かせていただきました。
「宮原坑」という場所で拝聴する炭坑節…!何とも粋なおもてなしですね。
川口さんがガイドを担当した時にリクエストすれば、披露していただけるとのことです。
ガイド申し込みの際にご希望をお伝えしてみてはいかがですか。
線路のために地形を変えた?
「三池炭鉱専用鉄道敷跡」
「宮原坑」の敷地内には、もう一つ世界文化遺産の構成資産「三池炭鉱専用鉄道敷跡」があります。
ここで採炭した石炭を港まで運ぶために敷いた鉄道です。
当時の枕木もまだ残されています!
元々は馬車鉄道が始まりだそう。港だけでなく、各坑口へ繋がっていたためこの鉄道は市内の色んなところに張り巡らされていたとか。
しかし、重い石炭貨物を何両も連ならせ運搬するので、坂道があると効率が悪くなります。
そこで運搬にかかるコストを抑えるため、なんと地形を変えたのです!
高いところは谷状に土地を作り変え、低いところ土手のように盛土をする。
いかに、石炭重視で考えられていたかが分かる世界文化遺産ですね。