ミステリー作家の西村健さんに地元・大牟田ラーメンを案内してもらう3回シリーズの最終回。大牟田駅近くだった1、2軒目からちょっと離れて、今回は西鉄新栄町駅が最寄りの「光華園」にうかがいます。地元でさえ店名だけを聞くと「えっ、どこ?」という反応をする人がいるかもしれません。実はこの店、通称の方が知られているようです。その名も「便所ラーメン」です。
3軒目:「光華園」
「昭和」が充満していた店
西村さんにとって、店の思い出は中学生時代にさかのぼります。もう45年近く前の話。当時は今と違って土曜日も午前中は授業がありました。「半ドンで給食はない。だから誰かが言い出すんですよ。『便所ラーメン食うて帰ろうか』ってね」。放課後は毎週のように級友たちとそんな言葉を交わしながら食べに行っていたといいます。
今は、ゆめタウンの道向かいの立派な自社ビルで営業している光華園ですが、当時はバラック(仮設の小屋)でした。「割れたのか窓ガラスもない。床には、卵の殻も、吸い殻も落ちとった。メニューはラーメンしかなかけん、注文せんでも出てくるとですよ」。なんとも昭和を感じさせるエピソードです。
では、なぜ「便所」なんでしょう? 「入り口の前に公衆便所があったとですよ。だから『便所裏』とも呼びよった。ばってんラーメンは、濃くてぎゃんうまか。何より大将の麺上げがかっこよかったとですよ」。
インパクトある愛称の理由とは?
西村少年が見惚れた大将とは原田五男さんです。既に一線を退いており、今回は話を聞けませんでしたが、私(ラーメン記者 小川)は、数年前に五男さんから店の歴史を聞いたことがあるので、ここに記しましょう。
創業は昭和30年頃。最初はこの場所で五男さんの母、アサ子さんの知人が中国で修行した後に「光華園」を始めたそうです。その知人が体を壊したために店を引き継ぐことになります。昭和39年頃のことでした。
「その時から光華園と呼ぶ人なんていなかったよ」と五男さん。当時から店の入り口に公衆便所があり、既に「便所ラーメン」として名が通っていたそう。建物と屋号、そして愛称までも受け継ぐことになったのです。
「便所ラーメン」の愛称を捨てる機会を自ら放棄
高校生ながら店を任され、卒業後は若き2代目として仕切った五男さん。「ずっと右肩上がりですごく売れた。さすがにバラックのままじゃいかんでしょ」と、まずは土地を買い取り、昭和が終わり頃には建て替えを決めました。その準備をしていると、公衆便所を管理する大牟田市役所から連絡があったのです。
「新しいビルに公衆便所を取り込んでもらえますか」
うそのような話ですが本当です。公衆便所も老朽化のため建て替えが検討されていて、一案として五男さんに電話をしたというわけです。
五男さんの選択やいかに?
平成元年に完成した5階建てビルには、公衆便所がちゃんと併設されていました。「便所ラーメン」の愛称から脱却するチャンスでもあったのですが、自ら放棄したのです。五男さんは笑い飛ばしました。「この名前で親しまれてきたし、悪意があるわけではないからね」
五男さんの妻、千鶴子さんも言います。「便所という呼称もいずれ忘れられると思っていた。でも、親の影響もあるからか、今の若い人たちも言ってます。それどころか、本当の屋号を知らない人も多いですよ」
見た目も、においも濃厚な一杯
建物は変わっても、その一杯は、変わらずに多くの人たちを惹き付けています。3代目の泰行さんは「父は言葉では教えてはくれません。全て『見とけ』でした」と言います。スープ室には4つの羽釜があり、濃度や熟成具合を見ながら、経験と感覚で、スープや骨を出し入れしていき、最後は厨房にある営業用の釜で仕上げます。
配膳されたのは豚骨の熟成臭がふんわり漂う、白濁した一杯。視覚と嗅覚で濃さを伝えてきます。「このちょっと浅めの丼がよかでしょ。大牟田で一、二を争うガッツリスープですよ」。そう言って西村さんは食べます。熟成より、骨っぽさがある濃さとでも言いましょうか。東洋軒も濃いですが、タイプが違うのです。とろみがかったスープが、豚骨のうまみを運んでくれ、大牟田らしい中太麺との相性も抜群です。
ラーメンの中に餃子を入れる!
「餃子ばいれて、途中で崩すのが好いとうとですよ」。西村さんは独自の食べ方を教えてくれました。ラーメンに餃子をイン? 半信半疑で試してみましたが、「意外」と言っては失礼ですがおいしいのです。
ここの餃子はかなりニンニクが強めです。溶かすことでスープの風味が増した上に、皮がワンタンのようにもなって二度美味しい食べ方です。主なサイドメニューには、餃子のほかには、おにぎりもあります。西村さんは残ったスープにおにぎりを入れる食べ方もしていたそうです。
大牟田にやって来た替え玉文化
餃子やおにぎりを入れて食べた理由の一つに「替え玉」が関係しています。博多や長浜では替え玉文化がありますが、大牟田には本来替え玉はありませんでした。
かつて西村さんは替え玉について聞いたことがあるそうです。五男さんは「スープが薄くなるからしたくなか、替え玉するくらいなら2杯くわんば」って言っていたそうです。
ただ、長浜や博多の替え玉文化が知られるようになるにつれて、光華園でも替え玉を注文するお客さんが増えてきたため、対応するようになったといいます。千鶴子さんは「最初は注文された方にのみ出していたんです。でもそれを見たお客さんが『あるなら言わんね』と怒りまして…。だから今はメニューにちゃんと書いています」と教えてくれました。ちなみに大盛りは「丼を二つ準備するのが面倒」(五男さん談)のため、昔も今もやっていないそうです。
光華園には「懐の広さ」のようなものを感じてしまいます。公衆便所を受け入れ、さらに愛称も受け入れ、そしてお客さんの要望も、受け入れられるところは受け入れていく。そんなおおらかな店の姿勢を地元の人たちは受け入れる。だからこそ、ずっと人気店であり続けているのだと思います。
今回、西村さんが案内してくれたのはすべて老舗で、大牟田を代表するといってもいい3軒でした。濃さ、麺の太さなど、共通する大牟田らしさがあると同時に、各店の味には違いもありました。また、深く話を聞くことで、それぞれの店の歴史や店主たちの思いにも触れることができました。物価高などの影響で個人店にとっては厳しい時代ですが、それでものれんを守る姿は頼もしくすらあります
大牟田出身の西村さんが愛し、東京に出てからより一層恋しくなった店たちは、大牟田には縁もゆかりもない私にも響きました。西村さんの話では、食堂系のラーメンなどまだまだ多彩な大牟田ラーメンがあるそうです。さまざまなタイプの大牟田ラーメンを日常的に味わえる地元の人がうらやましく感じます。
編集後記(企画者より)
今回、案内人である西村さんと交流のあるラーメン記者の小川さんにご協力いただき記事を書いていただきました。
小川さんが出した書籍にこんな言葉が綴られていました。
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「ラーメン屋さんの歴史はアカデミックに研究されてはいない、あくまでオーラルヒストリー(※1)が中心で、世代が変わればその正確性はほとんど薄らいでいくし、歴史そのものが消えゆく可能性だってある。だから、聞いて、残したい。」(西日本新聞出版「ラーメン記者 九州をすする!(替え玉編)」 “おわりに”より引用)
※1…オーラルヒストリーとは直訳すると「口述の歴史」。「現存する人々から過去の経験や体験を直接聞き取り、それを記録として取りまとめること」、あるいは「その記録・証言をもとにした研究および調査の手法」といわれている。
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まさに、その通りだなと思ったことが、大牟田酒場事情を調べていた時でした。
一大産業であった炭鉱関連の写真や文献はありましたが、昔のまちなみや日常的な風景はあまり残されていない。残したいと意志を持って記録していかないと消えていくものなのだと感じました。
今回、大牟田のラーメンを愛する西村さんの記憶と、九州各地のラーメン店を長年取材している小川さんの知見、そして店主への取材を通して知りえたこと。大牟田に長年住んでいる私でさえ初めて聞いた大牟田のラーメンのルーツ、その背景にはやはり炭鉱で栄えた大牟田というまちの営みがひもづいていました。
大牟田のラーメンのルーツが豚骨ラーメンの発祥の久留米からの流れかと思いきや、岡山の男衆という謎の黒船的存在。炭鉱で栄えていた当時の大牟田で稼ごうと県外の人達による影響で大牟田のラーメン文化が始まったことは驚きでした。
東洋軒さんに昔の屋台の写真を見せていただいた時には、こんな時代だったのかと感じ取れ感慨深かったです。
取材後に「大牟田のラーメンの未来は明るい」とおっしゃっていた西村さん。
これからもおいしいものが大牟田で長く続いていきますように。
他にも紹介したいラーメン屋はあるものの、今回はこれで終了です。
(奥深きラーメンの世界に一歩踏み入れてしまったような気がします...)
もっと知りたい方は、下記の西村さんのブログをチェックしてみてください。 「大牟田ラーメン制覇!!」という記事に、ラーメン店だけでなく中華料理店、 食堂のラーメン情報も載っています。
・西村健さんのブログのご紹介(「ブラ呑みブログ」)
https://ameblo.jp/izk04063/