大牟田市出身のミステリー作家、西村健さんに「地の底のヤマ」という小説があります。一人の警官の人生を軸に、三井三池争議から炭鉱閉山など大牟田の戦後史を描いた大長編で、ストーリー自体も面白いのですが、異色のグルメ本としての読み方もできます。というのも、実在の飲食店が多く登場するのです。
小説では、焼肉、焼き鳥、料亭、バー、ビアガーデンなど多くの店が登場するのですが、なかでも目立つのがラーメン屋さんです。なぜそうなったかといえば、戦後すぐの老舗が今でも残り、独特の味を築き上げてきたラーメンは大牟田の外せない文化だから、というのが一つ。そして何より、西村さんが大のラーメン好きだからです。
好きが高じて大牟田のラーメンを食べまくり、ブログでは「大牟田ラーメン制覇!!」と題した記事を書いている西村さん。「では、連れて行ってもらいましょう」というのが今回の企画です。西村さんにとって特に思い入れのある老舗を案内してもらう巡礼ツアー。九州のラーメン店の歴史をライフワークのように取材してきた「ラーメン記者」こと私・小川祥平が同行させていただきます。
1軒目:「東洋軒」
大牟田ラーメン語る上で欠かせない老舗「東洋軒」
西村さんが1軒目として選んだのは、大牟田駅東口そばの「東洋軒」です。のれんをくぐる前に、西村さんと私の関係を説明しておきます。最初に会ったのはもう10年以上前でしょうか、私が新聞社の文芸担当記者として、作家西村さんを取材したのが始まりです。その後、仕事以外でもお付き合いするようになり、今はともに「九州ラーメン研究会」(原達郎会長)のメンバーで、年2回情報交換会と称した飲み会でご一緒しています。
店に入ると3代目の江崎大宗さんが出迎えてくれました。なぜこの「東洋軒」を1軒目に? そう聞くと西村さんは「まずはここに来んばね、やっぱ大牟田ラーメンを語る上では外せんでしょ」。その言葉を聞いて江崎さんは「うち、外されたら泣きますよ~」と返します。というのは、東洋軒は創業昭和26年。現存する大牟田のラーメン店の中で最古の存在なのです。
岡山の男衆が伝えた一杯が炭鉱のまちの味に
初代は江崎さんの義祖父にあたる宮川光義さんです。店には古い写真が残っていましたが、光義さんは力強さを感じる面構えで、戦後に自分の力で店を立ち上げた胆力がにじみ出ています。10年ほど前に私は、光義さんの妻のトシエさんを取材したことがあり、次のような話を聞きました。
戦後間もない頃、炭鉱景気に湧いた大牟田で、光義さんはうどん屋やすし屋をやっていたそうです。しかし、どれもうまくいかない中、岡山から来た男衆らと知り合います。男衆は、ラーメン職人3人と麺職人1人。彼らは大牟田駅前でラーメン屋台を出して繁盛していたのです。ほどなくして男たちが岡山に帰ったのを機に、彼らから味を習った光義さんが駅前で屋台を始めたということでした。
光義さんと同じようにラーメン店を開いた人物もいて、彼らは「来々軒」、「まるせん」を開業しました。今、来々軒はすでになく、まるせんも本店はありません。ですので、東洋軒が現存する大牟田ラーメンで最古の店になるというわけです。炭鉱町でラーメンは売れに売れ、昭和28年に店舗を構えたのです。
トシエさんからは、こんな逸話も聞きました。戦後最大の労働争議の一つ「三池争議」(昭和34~35年)の頃は、1日700杯近く売ったそうです。トシエさんは「お客さんには地下足袋の人も、革靴の人もおったよ」。地下足袋は炭鉱で働く労働者たち、革靴は会社側の人たち。さらに、労使双方だけでなく、彼らの衝突を警戒する機動隊にも出前をしていたそう。考え、思想、立場も越えて、皆が同じ一杯をすする。歴史には残っていないであろう、大牟田の人たちの営みが、ラーメンを軸に繰り広げられている。そのさまがとても素敵だなと感じたのを思い出します。
「やきめしもうまかっちゃんね」
西村さんが、東洋軒に行き始めたのは小学生くらいの頃。「うちのおやじは『あぶらっこいのはだめ』とラーメンを食べさせてくれなかったんです」と西村さん。そんな生活の中で、長崎にいた叔父さんが大牟田に帰ってくるたびに連れて行ってくれたのが東洋軒でした。いわば「ラーメンのうまさを知った店」。大学進学で上京し、今も東京に住む西村さんは言います。「今でこそ東京にもうまい豚骨はいっぱいあるけど、昔はうまか店がない。帰省した時は必ず来ます。焼きめしもまたうまかっちゃんね」。
そうこうしているうちにラーメンが到着しました。見るからに濃厚そうなスープは、豚骨のみを使っているそうです。スープ室では、大量の骨が入った羽釜がぐつぐつとたぎってました。1日目に頭骨とげんこつを半日間炊き、2日目は出がらしの骨を除去しつつ、背骨を加えるそうです。火力と骨の量、これが濃厚スープの源なのです。
「濃厚やけん、中太麺によく絡むっちゃんね」。丼を手にした西村さんの顔が自然とほころびます。若干とろみがかったスープ。麺は九州のラーメンにしてはかなり太めの部類でしょうか。西村さんには、食べ方のルーティンがあります。まずはゴマを振りかけます。途中でニンニクチップを投入。終盤はコショウをかけて味変します。麺を食べ、スープを飲み、また麺を食べる。それを繰り返していると、あっという間に丼の底が近づいてきました。残りのスープの下には、ぼろぼろになるまで炊いたゆえに出てくる骨髄がたまっています。西村さんは「髄まで吸わんば」と丼を傾けました。そして完食と同時に「うまか!」
大牟田の特徴は濃厚スープ 久留米ラーメンとの違いは?
大牟田ラーメンは、古いスープと新しいスープを混ぜていく、いわゆる「呼び戻し」といわれる手法でつくられます。このつくり方は久留米発祥です。では、久留米ラーメンとの違いはどのようなところにあるのでしょうか?
江崎さんいわく、久留米などのラーメンは、元ダレ(かえし)、ラード、スープを入れるが、大牟田ラーメンはラードを加えないそうです。そうでありながら濃厚なのは、骨からでる脂分からでしょう。そして塩分が高めなのも特徴です。炭鉱労働者の腹を満たしてきたのだから当然といえば当然です。西村さんは「よそから来た人が知らんで食べたらしょっぱい(塩っ辛い)でしょ。でもおれは慣れとるけんね」。たしかに塩分強めです。ただ、江崎さんは「時代に合わせて控えめにはしています」と言います。
大牟田ラーメンを知ってほしい
江崎さんは大牟田ラーメンをPRしようと、11年前に店主たちで「大牟田ラーメン会」を結成しました。きっかけは九州新幹線の全線開通です。「博多、久留米、大牟田、玉名、熊本とラーメンどころがつながった。ところが大牟田ラーメンの知名度は低いままで、どうにかしたかった」。コロナ以降は、活動ができない時期が続いているものの、徐々に大牟田ラーメンの認知度は上がっていると実感しているそうです。
「大牟田らしさ」といえば、10年ほど前に「大蛇山ラーメン」なるメニューを考案しています。大蛇山祭りの山車をイメージした一杯は、トッピング全部盛りの大ボリューム。野菜の甘みとうま味がミックスされて、濃厚ラーメンの違った味わいを感じることができます。でも、混雑時に注文されると厨房が回らなくなるので、注文したい場合は、昼時は外してほしいそうです。
江崎さんは、もともとはラーメンの素人。だからこそ、いろいろな勉強をしたそうです。食べ歩きはもちろん、「麺もつくりたいから」と自家製麺も始めています。「この店がずっと続いていけばいいと思っています」と江崎さん。今は娘さんも製麺の手伝いをしているといい、老舗の未来は安泰のようです。
どこの街でもそうですが、街の店を知るのに、二つのパターンがあるような気がしています。まずは、初めて街を訪れた時に、誰もが必ず目にするようなランドマーク的な店。もう一つが、その街をより深く知るようになったときに出会う店。地元の人に聞いたり、いつもとは違う路地裏で出会ったりする、そんな店です。
その二つのパターンでいえば、東洋軒は前者です(どちらのパターンが良いというわけではありません)。大牟田を訪れる誰もが目にするであろう駅前の立地であり、その場所で重ねてきた歴史の重みがあるからです。
そういえば、福岡から大牟田に電車で到着後、駅の高架橋を渡っていると、東洋軒のビルが見えました。そして、壁には「大牟田らーめん 創業・昭和26年」と書かれた看板が掲げられていました。きっと、この街を訪れた多くの人たちが目を留め、心に留めるでしょう。
なんともいえぬ老舗の存在感を感じずにはいられません。「まずはここにこんばね」。西村さんの最初の言葉が妙に腑に落ちます。
元祖大牟田ラーメン 東洋軒
〒8360843
大牟田市不知火町1-4-18
営業時間:月、火、木~土、祝日、祝前日: 10:00- 20:00 日: 10:00- 15:00
定休日:水曜日